あしなてなケアOnline

静かにそこにいる。

2020年07月05日

雨にも色々ありますね。ザーザー降りやどしゃぶり。しとしと、ぽつぽつ。いろんな雨があって、いろんな表現がちゃんとあります。

私は、しとしと降りが好き。降っては止んで、雲間から陽がさして、またふって。「今日は結局1日中雨だったね。」と言うような雨が好き。

私は傘は持たなくて良い晴れ女なので、雨の日でもお出かけはします。移動中や屋内にいるときは雨降りでも、お空の外に出るタイミングには晴れると、信じていますから。

まあ実際は、私が傘をささないでも大丈夫!と思う程度に雨脚が弱まるだけの時もあるので、実際には晴れてはいないの時もありますが(笑)



傘がいらない晴れ女なのに「今日は結局1日中雨だったね。」という日が好きなのは、植物が活き活きするように思うからです。だから葉っぱが少ない冬の雨降りは、あまり喜ばしいとは思いません。人って勝手。


植物が活き活きするような優しい雨の日。特に新緑の頃から紫陽花の時期に緑の場所に行くと、目も耳も鼻も心も全てに染み渡るような美しさを感じます。


様々な形の葉っぱ達は、なんて色々なんでしょう!こんな色のお洋服を着てみたいなあとか、こんな柄の食器があったら絶対買っちゃう!とか考えるのも楽しい。この葉っぱのデザインはなんて完璧なんでしょう。木漏れ日から薄日がさせばうっとりし、大きな葉に乗っているコロンとした透明の雨粒は宝石のよう!ビロードのような苔達のふわふわしたとした感触。みずみずしさ。


それにしても、本当にたくさんの植物達。彼らはソーシャルディスタンスを保ってはいても、なんてたくさんの種類が同居しているのでしょう!ちょっとしたお祭り状態です。

なのになぜ、ここにいる私は、こんなにも穏やかで静かで心安らぐのでしょうか。


きっとそれは、

自然の植物達が「お互いを認め合いつつ、何も言わず、ただそこにいる。」ということをしているからだと思います。


これが道端のちょっとした空間一面に繁殖力旺盛にびっちり生え揃っているドクダミだったりすると(ドクダミは素晴らしい植物ですが)、穏やかで静かで心が安らぐという感じとはちょっと違うと思います。

畑もそうですね。それが例え癒し界のスター”ラベンダー”の畑であっても、心は安らぐよりも、むしろ踊ってしまう感じがします。薔薇畑もそうですね。稲穂や麦の黄金は、安らぐというより神々しさを感じませんか?


私の家の近くには、立派な高木がまだ何本か残っています。いつくかの木にはツタがたくさん絡まっています。私にしたら「これでは木が窮屈ではないかしら?鬱陶しくないかしら?」などと心配してしまうのですが、高木は何も言いません。

その様子は「じっと耐えている」のとはちょっと違う感じ。植物だって芳香成分などのサインを出して虫を避けたり、私から離れてねという信号を送ったりはしていますが、相手に聞き入れてもらえないときは「それはそれで仕方ないね」と受け入れているような感じがするのです。同居を認めているような、寛容を感じるのです。


でもわかりません。めっちゃ迷惑と思っているかもしれないし、植物同士では結構な舌戦を繰り広げているかもしれません。


でも私には聞こえない。だから私の心は静かでいられるのだなあと思います。



私は父を看取っていますが、父の最終末期もそうでした。もうお話しする気力もないほど衰弱している父でしたが、そうなった父の存在感は本当に素晴らしかった。

私は四六時中父のそばにいましたが、離れがたい居心地の良さでした。

死目に会えなかったら、、、という不安から席を外せないのではなく、安らぐからここにいたいと思っていました。


なので、この居心地の良い父の空気を独り占めしているのが申し訳なくて、母や兄弟にお泊まり看護を(多少恩着せがましく)譲ってあげたりしたものでした。それはとても良い時間だったようで、忘れられない思い出になっているそうです。(家に帰った私はとっても寂しかったけど!)



人は言葉を持っているので、つい言葉に頼ってしまいがち。

そして私も家庭の緩和ケアのプロとして「気持ちを伝えることの大切さ」を常にみなさんに発信してはいますが、それでも、ただ静かにそこにいるという尊さは、植物達を見るにつけ見習いたくなるのです。



なんてことを、最近言葉らしきものを発するようになってすっかり俗っぽく、もとい、人間らしく騒々しくなった甥っ子ベビーに、話してみようかなあ。

なんてね。